昭和44年9月26日 朝の御理解
御理解第97節「神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。」
教典を、ひも解かせて頂きますと、この一心という言葉が沢山使ってございます、ね、「一心を立てればわが心に神がござるからおかげになるのじゃ」と、ね、「まめで一心に頼めい」とか、え~、その、一心と言うたら、「草木でも芯と言うたら一つじゃ」と、「この一心を出すとすぐにおかげが受けられる」と、いわゆる一心というのはすぐにおかげが受けられると、一心に頼めい、ばおかげになると、一心、ということが、え~沢山使ってあります、本当に神に一心が届かんと、してみるとその一心というのはまあ、まあある意味で大変厳しいことだということが、この97節を頂きますと分かります、「神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、」ね、私共が、神様の前に言わば意義を正して、柏手して、御神前に向かわして頂きましたら、それこそ後ろから槍先で突かれるようなことがあっても、後ろに振り向くことがでけんと言うほどしの一心、例えば人の話声が聞こえるようでは、神に一心は届かんとおっしゃる、まだ一心不乱ということになる、その一心を立てて自分の心が乱れないまでに、一心不乱の信心、なかなか難しいですよね、でそのくらいな、厳しさを内容に持ったところに一心ということがです、え~、信心には求められるわけですね。
いわゆる不動のもの、ね、動かないもの、で、まあ、え~、ここんところを色々に御理解を頂いてまいりましたですね、「神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは」とおっしゃる、拍手してということ、ね、拍手の拍という字は手偏に白という字を書いてありますね、手偏に白、まっしっ、真っ白い、白赤の白、ね、白というのは勿論(?)ですよね、これは、ね、拍手して信心に向こうたら、やはり様々な、色々内容というのは、ございますね、お礼を申し上げます、または願いを立てさしてもらう、信心っていのは決して願いということだけじゃない、願いの内容はまあ、おおざっぱに分けると、礼とか詫びとか、願いということになると、言われてあります、ね、特に、例えば柏手して神前に向かう、例えばこの、願うということですよね、まあ言うならお取り次ぎを頂いて願うというても良いでしょう、ね、様々な例えば願いというものを持っておるんですけれども、え~、願うたからはです、願うたからはもう神様に任せにゃいかんのです、ね、私は神に一心とはそういうようなことだと思う、願うておきながら心配する、願うておきながら他にも頼む、あれにも頼る、願うちゃおるけれども心が乱れる、ね、のんならばです、もう柏手して神様へ向かうたら、言わば白紙にならにゃいけんということです、例えば今日この柏手というこの、手偏に白という字、ね打つと、打つですね、柏手を打つと、それが白とこう、それが白紙の白、ね、神様にあれこれとです、例えば痛い事痒い事、様々な心の悩み、様々な事柄といったようなものを願うたらです、願うたら願いきらにゃいけん、願いをきらなきゃいけん、ね、願うたからはこちらが白紙、ね、まあ言うならば、もう右になろうと左になろうとあなたにお任せしますという心なんです、ね、お任せしてあるから、心が楽になる、ね。
台風が近づいて来ておると、今度のはもう風速80メートルか、ね、イセロン台風の時のよりも大きいといろおととし、夕べ聞かせて頂いて、そのことを神様にお願いさせて頂いた、★そしたら御心眼にね、これは最近変った電気スタンドですけれど、この電気スタンドのここんところを頂くんですよ、これはもう自由自在です、こう上にも向きゃ下にも向く、どんなんでもなるわけ、ね、例えばね、台風がこう向かってきておる、ね、それこそものすごいスピードでこう向かってきておる、それでもね、ちょっと右に寄せて下さろうが左に寄せて下さろうがね、もうそこは、またはめを高く、上に吹き抜けるようにして下さろうとです、もうそのところは神様の自由だと、いわゆる、ね、天地が自由になると仰せられますね、ね、ですから天地が、なら金光大神のお徳にお縋りをさして頂いて、「金光大神様どうぞ、風を右によけさして下さい、左によけさして下さい」と言うてお願いをすれば自由自在におかげをくだっ、下さることが出来るのが神様なんだ、ところがそのですね、ならそう願うたからと言うてです、ね、なら神様が一々言う事聞いて下さることはないのだ、今日私が申しますね、自分自身の心の中にね、一心が立つ、自分自身の心の中に、ね、心が自由自在である、どのような難儀な問題を持っておっても、どのような事があってもですかね、一度神前に拍手して向こうてからはです、ね、向こうてからはです、どのような難儀な事であっても、神様にお願いをする、お取り次ぎを頂いたら、後が白紙になれるような心なんだ、自由な心、自分自身の心がです自由自在に、そこに、安心の心と言うか、ね、お任せしきった心と言うかね、そういう心が頂けれるようになるとです、天地すらが自由になって下さる、天地が自由になるとおっしゃっておられる、ね。
あぁ神様が自由になって下さるとおっしゃるから、今度もね、まあこれはいつものことですけれども、合楽が出けて此の方、この地方に強風は吹いては、またおりません事実、吹かんようになったと、皆がここでの信奉者はそう言うております、ね、まあ言うなれば、神様が天地を自由にしておって下さるといったような感じ、先日の台風の時も、こちらへ向かって一路、風が進んで来ておるという、総代にツツミシメキチさんが、その事をある自分の事情もあってのことで一心にここでお取り次ぎを願われた、したらおかげになると、その時私ちょっと頂きましたことを、忘れましたが、あ~とにかく、東の方へそれると、何かそういう風な意味のことを頂たから、あ~、心配はいりませんと、と言うてお答えしたんですがね、なるほど頂いた通りに風はそれましたが、あの宮崎地方あたりが、あ~、大変な被害を受けましたと。
東京から、あ~熊谷さんのお得意さんで田中さんって言う方がお参りをしています、こちらへ帰ってこられるともう必ずお礼参拝があります、もうそれは大変なおかげを受けた方なんですよ、もうついでながら申しますとね、そのこちらから行かれた方ですから、東京には不慣れなんです、行ってからすぐ、土地を買われたんです、ね、まあ言うならばまあだまされなさったという感じですよね、そこを買ったところが、そこはもう大きな広い道路が出来るということで、なったんですよ、ねだからそういうことはもう、売る人が知っとったけれども言わずに、まあ商いが成立したわけですね、だからもう矢継ぎ早に電報でその願いがございました、おかげでですね道の方がそれましたです、道が出来るその道の方がそれたです、現在そこへ立派な新築して、住まっておられる、東京へみえたら是非そのお家におよび下さいっち言うて、みえるたんびに言われますけれどね、え~、丁度、23日の霊祭の前の日ですから、田主丸の共励会の晩に、文男さんがまだお礼に参拝にしてみえられました、ね、それで私その時のそのこの前に台風の時の話がたになりますけれど、あの~、確かにそういう願いがあったから、そういう願いをさして頂いたところがです、あちらのその田中さんの娘婿さんという方が偉い、何か大きな会社の、お~まあ良い所、良い、え~その要職にあるわけです、そん時のその娘がもう、いよいよな時には必ず電話ででも、お~文男さんに頼んで、お取り次ぎを願われるのですけれども、その時に宮崎の(ごいっしっちょうふ?)という時、事をですね、もうお願いしようと思うたけれど、お願いしなかった、で大きな工事にかかられて、川のその堤防通りに、あのあれは何ですか、簡単に出来れれる、家は何て言うですかね、あれは文男先生なんっ、なん?、ああ、プレハブか、ね、そういうその大きな事務所が、大きな家だそうですけれども、それで出けたんです簡単に、ところがその台風にあったらですね、その家がね、上の方へバァっと舞い上がったそうですよ、それであた、そして落ちてきたもんじゃからもう、下敷きになってしまった、それで顎のここを割り、顔をこうされたんですね、ところがですね、もうその言われるんですよ実際に、今度お母さんが見舞いに行かれて言われるのに、「とてもとてもおかげと言わにゃおられん日頃の信心の、まあ徳とは思われんけれども、信心がこげな風にして現れるか」と言うて、娘と二人で感動しましたっち言うておられる、表に自家用車がおいちゃったげな、ね、丁度その自家用車に、倒れかかったけん、自家用車と潰れた家との間に挟まれちゃった、ただ顔のところが、顔だけが、こうまともにきとるから、こうはれた、そこには家もなんもない、川の堤防通りだそうですから、そういうあなたもの凄い風が吹く時ですね、もうどうしたことか分からんけれどもですね、あのタクシーが通り合わせたそうですよ、そのタクシーがすぐ医者に見せて、医者の方ではレントゲンとげんならんけん、もう電気がきてないから、その方の医者が自分の自家用車に乗せてから他の街に連れて行って、手当てが早かったからおかげ頂いて、それ一月あまりは、その物が食べられなかったり、流動食ばかりだったそうですけれどもね、もうおかげ頂いたというそのお礼参拝があったんです、でそん時思うたんですね、「はぁこの辺の所だけ風が吹かんごたってんなんてんっちいうお願いがちっと細かったと、内の信者がああいう所にも、おられたのに」とこうまあ思ったんですけれどね、これどもやはりそのようなおかげを受けておるです、ね、言うならば嘘のようなおかげです、天地が自由になるてんなんてん、けれども本当に、ね、今日私が申します、拍手して神前に向こうてから、ね、例え槍先で突かれるようなことがあっても、振り向くようなことのないだけの一心、人の、人声が聞こえるようでは一心は届かん、そりゃぁ人声が聞こえんことなかろうけれどもです、ね、そういうことにいをかえしない、心を乱さないで、神様に一心に縋れれるということ、縋ったら後は任せられるということ、昨夜またその台風の事をお願いさして頂いて、神様は自由になると仰せられるけれども、そこはこちらの信心な未熟ですから、まともにそれがまた、その願いというものは聞き届けられずにですよ、太いなら風がきましても、そこはもうあなたに任せてある、昨日私がお願いをさして頂いて、神様は「自由ぞ」とこう仰せられる、ね、ですから自分自身の心がいかに、自由自在に、全てどのような事の場合であっても、自由自在に使いこなせれる稽古を本気でしなければならないかということが分かりますよね。
昨日ある方がお参りをして、毎日頭が悪いと言うて参ってくる、ところが先日、その嫁さんがあるところから、まあ聞いてきた、「お宅は金光様の信心しなさるけんそげな事はなかろうと思うばってん、実際はこげんじゃんの」と言うて、「いや本当なことはこうじゃんの」と言うてその人が話されたと、まあなにか、(?)は拝みなさるとでしょう、「第一あんたん方はね、普請が出けたばってん、東側の方に玄関があるとに、南側の方のかって口の方から出入りしよるなはるけん、あっかさんな頭が悪いとですよ」っち言わしゃった、「それから倉庫の方が(?)よりも南の方へ向けとるでしょうがな」と「もうあれが第一もう悪か家相じゃ」まるきり家ば建て直さんならんような言い方ですはね、けれども信心のない、または、言わば間違った信心をしておる人達はそういうことにでもすぐ迷う、ね、それで家を建て直したという人がありますよ、ここの、もう亡くなられましたけれども、その方なんかは、けれどもやはり行叶わなかった、勿論、勿論迷信です、通りも足らない迷信ですけれどもです、そう言われたら気持ちが悪い、「うんなら私はもう信心しよるけんどうでん良かばってんか、あんたがそげん気になるごたるなら、あんたが親先生を、お願いをしてようと聞いちこんの」と、「いやそげな事は聞かれん」、「なら私が聞いちくる」っち、そう言うておるお母さん自身もやっぱりちょっと迷いよるわけです、ね、そげなことがあるはずがないじゃないの、日本人にだけそういう家相があるはずがないじゃないの、ね、それこそ天地の親神様のおかげを頂かなければここいっ、例えば指で押すだけだってですよ、天地の親神様のお恵みに、触れる、触れんで良いというとこはないのですもの、ね、それこそ、ね、「天地に対して無礼いたし」とかね、「前々のめぐりで難を受けおる」とおっしゃるがです、そういう天地に対する、そげなことを、おぉ思うだけでも天地に対する御無礼です、ね、また迷信というものは、不思議なことですね、迷うたことを信ずるとです、またそういうような事が起ってこないと言いきれないのです、だからそういう事を例えば聞いてもね、それこそ一遍でそれを、あの、本当に、そういう事を言う人達が気の毒なぐらいに、自分の心がすっきりするだけの信心を頂いておかなければならない、いわゆる本当の事をいわゆる分かってとかにゃ、いわゆる本当の本当の事を、ね、「あんた方金光様信心しござるけん、ね、家相やらそんな事は言いなさらんばってん、ほ~んなこつ言うとこれがほんなこつですよ」っち言うちから、偉いほんなこつがいくつでんあるわけですよねぇ、それば聞きござった婆しゃんが言わっしゃったげな、「そげん言われるとやっぱりそげなん事はね」その~何ち言うですか、ん~その~、「やっぱその、それに、む、むらっ、むげんにしちゃならん」て、ね、「やっぱりそげな事も、やっぱり守らにゃいっ、家建つる時にはもうただあんたが親先生親先生ばっかり言うちから、家相も見らんな建てたけんで」という意味な事を婆しゃんが言われたとか、なら本人自身も、そんな事はないと、言いながら思いながら何とは無しにかかわるからこそ昨日やっぱお取り次ぎ頂いとるです、ね、「その事を、その事をね、もっともっとね、すきっと、それこそ、まあ一笑に付しすると申しますがね、本当に真の信心をさして頂いておる者の有り難さというものを、そういう事を聞くたんびに返って有り難いと思えるような信心を、頂かにゃいけん」と言うて話たことです、ね、それを聞くともう、いわゆる心が動揺しよる、これでは一心は届きませんよね、今日の一心っていうことはそういうことなんだ、ね、人の物、あ~、物声を聞くようではとおっしゃることは、ね、そういう例えば、抽象的なことが入ってきても、それを、で、自分の心がね、乱れない、動揺しないですむだけの信心を持って一心の信心しとるということが言えます。ね。
子供が病気をする、もう家は金光様の信心頂いとるけん、もう御神米とお神酒さんでおかげを頂くという体験を持っておるから、まあ医者にもかからん、かかるかからんじゃないけれどです、そのくらいに神様を信じておるように、はぁ神様一心に、いわゆる一心に縋る、ね、ところがちぃっとばかり熱が出てくると「ちょっと体温計ばいっちょかけろ、はぁこれはもう40度もある」と言うて、心が動揺する、ね、もう私は体温計を使うなじゃないです、医者にかかるなじゃないです、ね、例えば体温計を使うてもです、心が動揺しないならば良いです、けれどもそれが何十度あるということが分かったところで何になるですか、神様に一心に縋っておるじゃないか、ね、平病気なら安心する、高い病気なら動揺する、これではね神に一心は届かん、それこそ槍先で突かれても、後ろへ振り向くことは出来んぞとおっしゃるでしょうが。
先日、善導寺の久保山の子があんな大変な、口中が、二つになるぐらいに、割れるぐらいに、その、あんな病気をした時です、熱が毎日40度からの熱が続くわけです、ね、それでお母さんそれを、体温計を使おうとしたところが、上の子がひょろひょろやってきてから、ちょっと扱いよったら割れるはずもないとに割れた、時にお母さんの腹が決まった、「はぁ私が体温計どん頼ろうとしておることがいけなかった」とまた一心の信心を始めた、それから勿論それからもっと酷うなった、酷うなったばってんもう絶対医者とも言わん、注射とも言わん、いや体温計とも言わずに、おかげを頂いたが、おかげですっきりおかげを頂いた、そのすっきりおかげを頂くまでには、相当やはり、ね、もう突かれるように引かれるように、様々な人声が入ってきた、お母さんまでが「これは病院に連れていかんで良かの」っち言うちから心配されるぐらいあった、けれどもそこに一心を突き貫いた、おかげを受けました、ね。
ですから、私は今日の97節はね、今日はそのような風に頂かなければならん、私共が神様一心と言うとる、ね、一心、「神に一心は届かん」とここにおっしゃるがです、またの一心のところにはね、「その一心を出すとすぐにおかげになる」とか、ね、「一心に頼め」とかと、一心ということを、あらゆるところにこう、使ってございますその一心とは、そのようなものなんだ、今日私が申しますようなものを持って一心、だから神に通う、ね、それにはです、例えばならお取り次ぎを頂きお願いをし、願わせて頂く、拍手して神に向こうたらです、神様にお預け出けれる信心、また心配を持って帰るようなことではおかげにならん、ところがなかなか、やはり稽古です、ね、段々おかげを頂いて、なるほど親先生任せになってさへおれば、神様任せにさへなっておればおかげが受けられると、度重なるおかげの中から、確信が出けてきて、ようやくそこが出けるのですけれども、その自分の確信というものを確かめてみて、はたしてそれが一心か、一心になれるかなれないかと、どのような場合であっても。
ある人が昨日参ってきた、「もう本当に結構気だらけといったようなおかげを頂いて、もう毎日が安心でございます」とこう言う、★そしたらあの、温泉マークを頂いた、なるほど本当に温泉に浸っておるようなおかげを受けておられますです、ね、ところがこれではもろい、そういうただ「結構気だらけだから、安心しておる喜んでおります」というのは、ほんな喜びじゃない、例えば今日私が申しますように、どのような場合であっても、一心になれれる信心を持って、ね、自由自在に自分の心が有り難い方へ使えれるおかげを頂いて初めて、極楽なんです、ね、その事を私がまた伝えさして頂きよったらね、「降ったっちゃ照ったっちゃ本当に私ごたる幸せな者なありませんと言えれるというなかにゃいかんですよ」っち「今あなたおかげ頂いちゃる、何にも不自由せん、おかげ頂いちゃるからそげん言いよるけれども、ね、さあ一端風だ雨だというと、迷うようなことであっちゃぁならんよ」と言うて話よりましたら、その温泉マークのね、温泉マークのこうやって曲がっとるでしょうが、上に三本、それが真っ直ぐにこう書いてあるところを頂いた、ね、本当のですよ、本当の安心というけど、信心の喜びというのはね、本当の信心ということですね、真っ直ぐいっちいうことよ、真っ直ぐい信心をさしてもらい、真っ直ぐい、いわゆる、真の修行をさしてもらい、真の信心を分からして頂いて、初めて安心というものは生まれるんだと、いう意味なことをまあ頂いたんですけれどね。
お互いがどうぞ真の修行が出けておるか、神様が求めて下さる修行をまともに合掌して受けぬいておるか、成り行きを大切にしておるか、そこから生まれてくる、「私達のような幸せ者はないですの」と家庭で話合えるような、信心頂いた時初めて、あなたは安心のおかげを受けておる、または信心を本当に頂いておる、いわゆる本当の言うならば極楽に、あるということが言えるわけです。
どうぞ神様へ一心が、通い、通ずるような信心をさして頂きたい、それには人声を聞くようであったり、槍先で突かれても振り向く事のない、ね、いわゆる一心不乱とこう申しますが、いわゆる不乱の信心、乱れない信心、どのような場合であっても迷わんですむ信心、動揺しなですむ信心、そういう信心を持って、一心の信心だということが言えると思うですね。
どうぞ。
入力者:誠輝